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「わが子は育てにくい」と思っている親であるあなたへ

意図的なこども、意志を持っているこどもは<育てにくい>ものです。 




 

親や先生の言うことをただ聞くより

自分の意志で決める存在・・・


彼らは、大人の<ふつう>という枠には、収まらない。

彼らは、<親の思い通り>には、動かない。


彼らは、自分の好奇心に忠実だ。

彼らは、やらなければならないことではなく、やりたいと思うことを選ぶ。

彼らは、自分で決める。

彼らは、しばしば型破りだ。

彼らは、親の予想を超えたことをする。



このような<こども>を持つ親は、試されます。



そして、<こども>というのは、元来、源の存在なのだと思います。



優れた子に育てないといけない

健康でハツラツとしていないといけない

人並みにできないといけない

みんなと同じじゃないといけない

悪目立ちしてはいけない

根気良い子供に育てないといけない

意志の強いこどもにしないといけない



親としての自分の基準から少しでも外れたように感じた瞬間から <不安>が心に忍び込んできます。



「あの子のために、私がなんとかしなければいけないんです。」と。



自分が正しいと思うようにこどもが育てられないと、

次は、

自分自身を「だめな母親なんじゃないか・・・」と批判するようになっていきます。



こどもへのあたたかな愛情に、不安や心配というフィルターがつくと

良かれと思ってやっていることが、裏目にでてしまうことも珍しいことではありません。



 

わたしは、そんなことはしていない・・・

わたしに限っては、そこまで悪くない・・・



わたしは、そう思っていました。


あなたは、どうですか?


こどもが大好きで、大学で児童心理を学び、悔いのない子育てをしたい、

最高のお母さんになりたい・・・と努力してきました。


他人の親子関係や世の中のニュースを見ていると、

「何が問題なのか」手に取るようにわかっているつもりでした。


でも、皮肉なことに、自分の存在や言動、態度が、どれくらいこどもの可能性を阻んでいるか、苦しめることになっているか、自分のこととなったら、なかなか気づくことができないものです。




 

わが息子が小学校1年生の頃

「サッカーがやりたい♪」と無邪気に私に言ってきました。


ワクワクしていて、ぴょんぴょん飛び跳ねながらのその言葉に

「やりたいことがあるって、素敵~」と、わたしまで楽しい気持ちになりました。


私は、「彼のやりたいことなら最高の環境でやらせたい」と、

地元でも有名なサッカークラブに入団させました。


そこは、3歳や4歳からサッカーを本格的に指導しているエリート集団でした。


何回か通った後

息子がわたしにきっぱりと言いました。


「次から、このクラブには僕は行かない」


そのときの衝撃。


「なぜ???」


こんなにかんたんにやめるクセをつけてしまったら、どうしようもない大人になってしまうんじゃないか?

他の子はボールにくらいついているのに、この子はのんびりしてて、この先競争社会で生き残っていけるのかしら?


わたしは、笑顔をつくり(かなりひきつっていた)

<ここが肝心!今こそ、忍耐力をつけるとき!ここで流されるわけにはいけない!>と、

息子を説得しました。


自分ができないときに忍耐強く続けることが、いかに大切なのか・・・

はじめたばかりだから、もう少し練習したらみんなに追いつくよ、あきらめないで・・・


わたしのおしつけと脅しの言葉のシャワーに

6歳の息子は、たった一言


「僕は、ママと違うから・・・」


根負けしたかたちで

その後、そのサッカークラブに息子が行くことはありませんでした。


バッタを捕まえてプレゼントしてくれたり、

蝶々を孵化させたり

放課後に友達とするサッカーやドッヂボール・・・


彼は楽しそうに、彼の道を行きました。


わたしは「これで良かったんだろうか・・・」と、自分への信頼を失っていました。



 


子育ての確信のなさ

仕事での自分の成長が鈍っている感覚

がんばろうとしているけれど、頭打ちな感じ

この人生で「ほんとうに為すべきことは何か?」使命が見つけられていないモヤっとした焦り


あらゆるレベルで、わたしは自分の殻を破って進化したかった・・・




 

数ヶ月後、意識の探検:アバターに出会い、自分の可能性を探検するチャンスがやってきました。


変えたいことがなかなか変わらないとき

望む人生や人間関係をつくれてないとき


自分の価値判断、思い込みや固執した視点に気づき、認めて、手放すというプロセスの途中で

雷のように、大洪水のように、意識の再構成は起こりました。






息子は、ただボールを蹴ることが楽しかったんだ

みんなでピョンピョンと動きまわりたかっただけなんだ

下手とか上手いとか人に判断されて訓練されるよりも、今はただボールと遊びたかったんだ


息子がサッカークラブを「やめたい」と言ったとき

とっさに「この子は逃げている」と思ったのは

わたしがこれまでに<ほんとうは欲しかったのに、あきらめてしまったことがある>ということを

わたしが、わたし自身にごまかしてきたからだ


その固執した視点があったから、とっさに息子を決めつけたんだ


息子の気持ちに興味を持つことも、よく聞くこともしなかったのは

彼について「わたしが一番わかっている」と思い込んでいたからだ


本当は、目の前の存在は、一瞬一瞬変化しているはずなのに・・・


そして、わたしの父親の子育てに「あんな風にはなりたくない」と抵抗していたことを

そっくりそのまま自分が息子にやっていたんだ・・・



 


そのとき、わたしのためを思ってこれまであれこれやってくれた父や母の<愛情>を

はじめて全身で受け取れた瞬間でした。


はっきりと意思表示をして、自分の道を選んだ息子を誇らしいと思いました。


心配から、「これから何が起こるのか楽しみ」という気分への転換がありました。


このプロセス(アバターツール)があれば、どんな予想外のことがあっても

自分で思い込みを手放して、最適な選択ができるという自信と一体になりました。


それは、これから起こること「すべては大丈夫なんだ」という気持ちです。


こころから、このプロセスの技術を世界のお母さん、お父さん、人と繋がりたいあらゆる人に持っていただきたいと思っている理由です。



 

意図的なこども、意志を持っているこどもは<育てにくい>ものです。 

 

<育てにくい>ということは、わたしたちへの贈り物です。


彼らを<育てにくい>と思っている、わたしの側の意識を探検するのです。


わたしたちの勝手な期待を手放して、

こどもの好奇心、こどもの純粋なエネルギーと

一緒になって瞬間瞬間を冒険する・・・


そうしたら、こどもたちは自由に自分の人生から必要なことを学び、

大きな愛情に包まれていることも実感します。


なによりも、この存在たちは、わたしたちの凝り固まった価値判断やフィルターを解き放ち

真実の生き方に還らせてくれる源の存在。


さぁ、こどもたちと一緒に人生というダンスを味わいましょう。

どんな予想を超えた未来が待っているでしょう。


そう、すべては大丈夫。



 


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